「良い話」が作り話だったとして何が悪いのか
こんな話がFacebookでイイねイイねシェアシェアされてて、はてブ界隈ではクッソミソに腐されている。
はてブのブコメ大喜利でひとしきり笑ったあとFacebookのタイムラインを見ると、案の定いいねしてる人がチラホラでやっぱりというか勘弁しろよというか、であります。
この手の話がFacebookで「ごシェア」されるのは珍しくもなんともないのだけれど、今回珍しくもはてなで話題になっているのは、あまりに針の大きい釣り針、ザツな作りの釣り堀だからでしょうか。
ポロリしつつ用を足している時に、「なぜなら君たちは、仕事の意味を履き違えているようだ。」なんつって流暢に人にお説教をしている。
凄い図です。
何分かかんの、このセリフ。
ちなみに、わたくしが伊武雅刀を意識したセリフ回しと渋い声で間を取りながら言ってみましたところ、1分20秒かかりました。
バッカみたい。
ほんだら、なんで「良い(作り)話」はよろしく無いのか
スカッとするテレビがやってたり、バイラルメディアでの良い話が御シェアされたり、ひねくれ者にとって非常に住みにくい世の中ですが、さてさてこの手の「良い話」が作り話だったとして、一体それのどこが悪いのか、と言われるとちょっと込み入ってきますですね。
実際にこの話が完全なフィクションなのか、実話を盛々に盛った半フィクション的なものなのか、はたまた奇跡のノンフィクションなのかはさておき。
「ノンフィクションの皮をかぶったフィクション」がダメっつうか、あんまり近寄ったり心動かされたりしちゃいけない危険物なのはですね、やっぱり知的な退廃に繋がるからじゃないでしょうか。
退廃だなんて、Hulu廃人であるところのわしに言われたかないと思いますが、「それ、信用に足る情報か?」ということを常に検証するのは、別に特別な日に頑張ってやることではなくて、生きる上の態度でしょう。
良い話だろがデマだろが江戸しぐさだろが、疑う姿勢は常日頃から涵養しておかんと。
「良い話はすぐシェアしちゃうけど、大地震の時のデマ拡散はすげー慎重」なんておそらく一個人としてそんな軽やかな身の振り方できんでしょきっと。
ことに良い話ってのはこれもう脊髄にズキューンと来ますからね。
こういう時こそ反射じゃなくてですね、ちゃんと大脳新皮質動かして判断するクセをつけときたいと思う次第です。
「逃げろー!舌がバカになるぞ!」という意味で。
あとさ、
「ピンチになった時に颯爽と助けてくれるのは、自分じゃなく権力を持った誰か」
っていうの野暮だなあ。
フィクションとしてそういう構造を持った話は野暮だし、それに気持ちよくなっちゃうのも野暮だ。
(B級だと分かってても、そういう脳髄に来る、化学調味料モリモリのジャンクなやつが食べたい時はそりゃあるけど・・・)